フョードルの煩悶(3)2009-12-23

アリョーシャを前に、フョードルは悪魔の鉤について持論を展開する。

≪А коли нет крючьев, стало быть и всё по боку, значит опять невероятно: кто же меня тогда крючьями-то потащит, потому что если уж меня не потащит то что ж тогда будет, где же правда на свете? Il faudrait les inventer, эти крючья, для меня нарочно, для меня одного, потому что если бы ты знал, Алёша, какой я срамник!≫

<試訳> もし鉤がないとなると、全部パァってことになる。ということは、またうそのような話で、それじゃあ、誰もわしを鉤で引きずらんてことになる。
わしを引きずらねぇなんてことがあったら、いったいこの世のどこに真実があるってんだ。何としても鉤をこさえなきゃならんのだよ、わしのために、わしだけのためにな。なぜかって、アリョーシャ、おまえがわしがどんな恥知らずな人間かわかってくれたらなぁ。

フョードルは自堕落で酒好きで破廉恥ですが、論旨は一貫していると思います。興奮してまくしたてる場面でも、内容には彼の独自の哲学があり、明晰さを感じさえします。ここでは、悪魔の鉤を主題にしてはいますが、実はその裏返しとしての神の存在についての自問自答なのではないでしょうか。

コメント

_ gieyon ― 2009-12-24 21:55

作者の名前をもらったフョードル。この煩悶も作者自身のものではないでしょうか。もちろん、どの人物も作者の投影と言えるのでしょうが、フョードルやミーチャには特別の入れ込みようです。フョードルの論旨は作者の本音で、”一貫して”当然なのでしょうか。

_ mir→gieyon ― 2009-12-25 08:47

同感です。作者の性格、哲学、宗教観など多くの側面をカラマーゾフ家の人々に分け与えているのだと思います。後に登場するスメルジャコフやグリゴーリィも含めて。ドストエフスキーに限らず小説家というのはそのようなものかも知れません。

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