いかにして信仰に至るか2009-12-27

使徒トマスの例をあげて、信仰に至る心理が分析される。

≪Чудо ли заставило его уверовать? Вероятно всего, что нет, а уверовал он лишь единстовенно потому, что желал уверовать, и может быть уже веровал вполне, в тайнике существа своего, даже ещё тогда, когда произносил:<не поверю, пока не увижу> ≫

<試訳> 果たして奇跡が彼を信仰に向かわせたのだろうか。そうでないことは明らかで、彼はひとえに信仰を欲したからなのであって、“この目で見ない限りは、信じない”と言っていたその時でさえ、心の奥底ではすでにほとんど信じていたのかもしれない。

キリストの復活を信じなかった使徒トマスが8日目にイエスに会い「我が主よ、我が神よ」と言ったことを踏まえています。文中の彼はトマスなのですが、アリョーシャもそうだと作者は言いたいのでしょう。このように信仰に至る過程に拘って深く問題にするのは、ドストエフスキー自身のことを語っているからではないかと思わずにいられません。

コメント

_ gieyon ― 2009-12-27 22:34

キリスト教徒にとって、信仰告白(どのようにして信仰をもったか告白する)は重大です。「彼はひとえに信仰を欲した」・・・この切ない願いは、混沌とした現代に生きる私たちの心を打ちますね。

_ mir→gieyon ― 2009-12-28 08:27

そうですね。シベリア流刑地で聖書を繰り返し読んだという作者にとって、「信じたい」と求める心情は経験済みの共感だったのでしょう。

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